rackotterのブログ

ニシカワケン

科学の正体

オリジナル原稿は学生時代の文集「新しい科学の会」所収(1970年頃)

 

はじめに

 われわれは現在20世紀の科学技術の時代に生きている。そのため科学は所与のものであり、あたり前であり、どちらかといえば、神話や迷信、魔術、未開社会のアニミズムなどを奇妙だと思う時代にいる。しかし、いうまでもなく人類史の大部分は大なり小なり宗教的世界、呪術的世界観に当然のように馴染んできたのであり、そういう時代に戻るのにはほんの二百年もさかのぼれば十分である。そして、ネアンデルタール人の死者の葬り方にある程度の宗教的観念のあったことが見られるというほど、その起源は古い(今西錦司「人類の誕生」)。そういうことを考えると、人間本来の立場からすれば、むしろ宗教は当然のものであり、科学こそなにか「奇妙で普通でない」ものかもしれない。科学の奇妙さの裏がえしとして、現在ではむしろ逆の感じを持つようになっているのではないだろうか。

 このような問題意識をもつようになったのには、もちろん、何人かの人の本に影響を受けている。たとえば、文字どおりの表題の本で「人間にとって科学とはなにか」(湯川・梅棹、中公新書)などである。この本もそうだが、気がついてみると近年いくつかの方面から、この科学の奇妙さということをめぐって問いかけがなされているようである。と言っても、まだ問題が整理されて提出されているわけではないように思う。そういう状況も頭におきながら、眼にふれたこと、気がついた問題について順次あげてみる。

 

その1

 最初はやはりJ.D. バナールから —「歴史における科学」第一巻一章三におもしろい指摘がなされている。「歴史をみると経験の諸分野が科学の領域の中に入ってくるには一定の順序があることがわかる。大ざっぱにいうと、それは数学、天文学、力学、物理学、化学、生物学、社会学と進む。技術の歴史はこれとほとんど正反対の順序をふんでいる。即ち、社会組織、狩猟、家畜、農業、・・冶金、車両と航海、建築機械、機械、機関である。」つまり、科学の順序はいわゆる自然の階層論にしたがっているわけだが、技術の方はむしろ逆向きに進んだというのである。こういう話を見て少し意外な気がしないだろうか。

 われわれは日常、「科学技術」という科学と技術を一緒にした言い方にあまりにも慣れてしまっている。したがってまた、科学と技術は不可分のものであり、始めから両者は相伴って発展してきたのだろう、と何となく思っている。しかし事実は、バナールの言うように、両者の発展過程は相反していると言ってもいいくらい違ったものであるらしい。こういう所にも、科学の奇妙さが顔をのぞかしているのではないだろうか。

 バナールもその後で言っているが、技術の進み方は思えば当然の順序を踏んでいる。人間自らの生活の必要に応じて開発されたまでであり、その対象が複雑であろうがなかろうが関与せざるをえなかったまでである。今からみるとかえって単純だと思われるメカニカルな技術が登場するのが意外に遅いと感じるのも、われわれが現代という見やすい立場にいるからにちがいない。(古代社会では奴隷という、あまりにも有能な「機械」を生み出したため、それ以外の機械は必要でなかったと言う人(L.マンフォード)もいる。)こういう技術の進み方は、種々の古代社会に共通して同種の技術が見出されることなどからも多分に一般性があるといえるだろう。そのため、むしろ技術(宗教も含めて)はそれ自体、あれこれの社会(文明)の水準をはかる指標となるし、実際そうされている。

 ところで、科学がこうした技術の当然の歩みとは正反対の — とは文字どおり言わないまでも、まったく別個の進み方をしたというなら、そのことは何を意味するのだろうか。このことは、もっと言えば、科学は文明の高低に必ずしも伴なわないこと、つまりどんな社会でも一定の水準に達すると科学を生み出すといったものではなく、もっと特殊な状況とむすびついてはじめて存在しうることを意味するのではないか(同様の表現は E. ツィルゼル「科学と社会」p.3 にもある)。科学が技術や宗教と同じような面をもつにしても(比較されるのは多少とも類似性があるため)、科学がそれらと一番ちがうのは、こういう文明の中で考えたときの位置である。

 

その2

 ここで関連してくるのが、最近いろんな所で言われるようになった問題 — なぜギリシャで科学が生まれ、古代中国では生まれなかったのか — である。「科学は必ずしも文明に伴わない」と言ったのも、一つにはこのような「根拠」を踏まえてのことである。中国のように何千年にもわたって高文明を維持し、磁石の使用、火薬、印刷術の三大発明を含む高度の技術を生んだ文明国で科学についに生まれなかった(薮内清「中国の科学文明」岩波新書)ということは、むしろ科学自体の妙な性格に原因があるとしか思えない。最近出た「科学史のすすめ」(広重徹、筑摩)にもこの問題がとりあげられていて、中国の思惟様式についての興味ぶかい分析もなされている。

 その中でも言われているが、この中国とギリシャの科学を問題にするときには、何をさして科学というか、ということがつきまとってくる。とくに英語でサイエンスという場合、むしろ日本語の学問という意味に近くなるため混乱したりする(そのためか外国で書かれた科学史などでは、なんでもかんでも科学に含めるきらいがある)が、ここでは日本語でいう近代科学を典型とする意味での科学を考えておけばよかろう。科学を拡大解釈し、その起源をずるずると過去へもっていっても結局はわけが分からなくなるだけだと思う。科学はやはりギリシャ以上にさかのぼりえないし、ギリシャ以外の文明圏には出現しなかったと言うべきである。むしろそう言い切ることによって問題の所在がはっきりしてくると思う。

 とすれば科学が奇妙なら、その一部はギリシャの奇妙さに還元されるのではないだろうか。とくにエジプト以来の諸文明のなかにギリシャを置いたとき、その特殊な位置、例外的な性格が浮かび上がってくる。たとえば、ポリスの民主政治、なかでも何かといえばすぐに指導者を追放してしまうオストラキスモスに見られるような驚くべき明快さは、現代社会を含めてもちょっと類がないだろう。そういう明快さの故に、大国ペルシャをも打ち破ることが出来たにちがいない。芸術その他ギリシャ独特のものは多数あると思うが、科学と関連して一番変っているは、なんといっても、ものの考え方である。

 当時の一般的傾向からして、東洋の孔子や釈迦に代表されるように、まともな人間ならまず世の中や人生の「意味」について考えるのが普通だと思う。自然を対象に考えるとしても、たとえば天体の運行が自分たちの運命を左右しているという「意味」を認めるからこそ、観測しようという気になるのがその当時の発想だったはずである。ところが、ターレスに始まるギリシャでは、「意味もなく」万物の元素などについて — 大の男がである — 論じている。それも一人や二人なら例外として片づけられるが、そういった「意味のない」議論を許し受け入れ、あまつさえ助長するような社会的背景があったらしいのである。ある本に次のような話が出ている(世界の歴史4、河出)。

 ポリスのギリシャ市民の男たちは、毎朝買い物かごをさげて、ポリスの中央にあるアゴラという広場に出かけて行くのが日課であった。アゴラには市がたっており、ぶらぶら買い物をしながら、あるいはそこらにいる誰かをつかまえては議論をふっかけ、それにあきれば体操場に行ってスポーツに興じ、日暮れとともに家に帰って妻に買い物かごを渡す — それがむしろ標準的な市民の生活であったというのである。

 これを読んだとき、ぼくは初めてギリシャ科学の発生の様子が納得できるように思えた。議論することが全市民の生活の一部であったような社会 — そこでは議論のための議論が横行しただろうし、相手をやりこめるために論理の腕をみがくものが出ただろう。なかでもとくに専門化したのが後にソフィストと呼ばれたような連中であったにちがいない。そういう背景がないかぎり、論理だけを極端にまで押し進めてはじめて到達できる「原子論」や「ツェノンの逆理」のようなものが現れるはずがない。そして、同じ基盤の延長上に、ピタゴラスにはじまりユークリッドで完結する科学の原型(近代科学の成立にとって、アレストテレスまたはアルキメデスなどの系譜よりもユークリッドの方が決定的だったと思う)がつくられたのである。ただし、こうした「不毛」の議論に背を向けた人々も当然いたであろう。たとえば、自然哲学を嫌ったといわれるソクラテスがそうである。しかし、この世の「意味」を説こうとしたソクラテスなどのまともな立場は、どうみてもギリシャでは少数派だったようだ。彼が最後に毒をあおって自決したのもそのような状況と無関係でないと思う。

 このソクラテスの立場と自然哲学者らの立場の関係は、よくひきあいに出される中国の諸子百家らの間ではむしろ逆であったと思われる。後者でも「白馬は馬にあらず」という類いの「無用の議論」を展開した流派が現れている。しかしギリシャとは反対に、中国ではそれらの流派は多数派にはなりえず中途半端なままで消えてゆき、孔子老荘の立場が勢力を得てしまう。ここが1つの歴史の分かれ目であったに違いない。がしかし、何度もいうように、古代社会の当時の状況からすれば、中国の進み方の方があくまでも正統であり、ギリシャのように「無意味」が生き永らえ、ついには体系化されるにまで至ったということは驚くべき例外でなければならない。(「無意味」を少し強調しすぎたので断わっておくが、自然哲学を論理的に進めさせた原動力の1つとして、ピタゴラス派による音階における「数の調和」の発見、ピタゴラスの定理の発見など、具体的な数の論理による成果のあったことがその後に大きな影響を与えたと思われる。中国では、陰陽説のような漠然とした数の論理しかなく、具体的な成功が見られなかったのと、この点でも対照的である。)

 実生活に縁のないような自然哲学的思惟は、特にその初期には、何の拠りどころもない脆いものであったはずである。だから、たとえば当時存在したユダヤ教ゾロアスター教のような強力な思惟体系がもう少し早く西に進み、地中海を覆ってしまうような状況が起こっていたなら、それを跳ね返してまで自然哲学流の考えが持続できたとは、とても考えられないのである。そして事実ローマ時代以降、ヨーロッパ中世にかけて、すでにギリシャ科学はつくり上げられていたにもかかわらず、キリスト教に押されて無視され、忘れられてしまうのである。

 科学がキリスト教のような高等宗教をも打ち破る力を持つようになるのは近代科学以降のことでしかない。16世紀以降、実験的方法が導入され、したがって「真理性」という確かな拠り所を得て、科学は自立し、確立されるのである。結論をちょっとキザに言えば — 科学の誕生は決して安産ではなかったのであり、科学は奇妙なギリシャ文明の中であやうく生まれた鬼子である、と。

 ここではギリシャの「奇妙な」面だけを強調したが、もちろん、ギリシャにも奴隷制ディオニソス信仰のような、古代的な裏面があったことも承知しているつもりである。むしろ必要以上に強調した理由の1つは、これまであまりにもギリシャが文明の理想として、また典型として扱われ、その特異さ、例外的な文明という面からの捉え方がほとんど見られないことである。その原因の大部分は、世界史はギリシャから始まるとするこれまでの欧米の歴史観にあると思う。ギリシャが前提とされる限り、それが「奇妙」であるはずがないからである。

 

その3

 科学の「奇妙さ」はマルクス主義の文献からも読みとることができる。周知のようにマルクス主義では科学および科学的方法がことのほか重視されている。というより、その基盤である弁証法唯物論は科学につながり、一体化するべきものとして捉えられている。つまり、科学(の立場)を前提としていると言った方がいいのかも知れない。そういうマルクス主義にとって、科学はどう(人間および世界に対して)位置づけられているのだろうか。

 マルクス主義では社会の諸要素を上部構造と下部構造に分類する。では科学はそのどちらに入るのか — 昔から気づかれていたことだが、科学は下部構造にはもちろん、上部構造にも入れられていない。上部構造に入るのは政治、法律、宗教、芸術、哲学、イデオロギーなどであり(たとえば、マルクスドイツ・イデオロギー」参照)、科学は含まれていない。つまり、それらとは基本的に異なる性格をもつ何者か、なのである。それでは科学は上部および下部構造に対してどういう位置に立つというのだろうか、 — 実はそれ以上のことはどこにも見られないのであり、結局マルクス主義では、どちらにも属さないという形でしか科学は「規定」されていない、というほかはない。

 どうしてこんな不思議な状態がそのままになっているのか、疑問に思われる。理由として考えられるのは、マルクス主義の理論が形成された当時、実践的な課題として重要とされたのは、この種の「規定」よりも、観念論と唯物論という対立の中で、観念論に対しての唯物論(それはまた科学の立場)という相対的な形での規定(レーニン唯物論と経験批判論」参照)であったから、ということである。しかし、あくまでもこれは先ほどの「位置づけ」とは別の問題である。それによってもう1つの問題が忘れられてよいということにはならない。とくに科学が常に正義であり「良いもの」だとは感じられなくなった現在では、科学の基本的性格を明らかにする意味で、その「位置づけ」が重要な課題となるはずである。

 あらためて科学の「位置づけ」の問題に戻ることにしたいが、これは大問題である。まともにはとても扱えそうにない。ただ出来そうなことは、アナロジーを捜すという方法を用いてみることだろう。科学のように上部構造にも下部構造にも属さないとされるものがほかに何かないだろうか。そう言われれば想起されるものがある — 言語(ことば)である。スターリンの「マルクス主義と言語の諸問題」のなかで、言語が社会の上部構造にも土台(下部構造)にも属さない、とされているのだ。その理由としてスターリンの述べているところを2、3引用しよう。

「あらゆる土台は、それに照応した上部構造をもっている。・・土台が変化し、なくなると、これにひきつづいて、その上部構造も変化し、なくなり、新しい土台がうまれる。言語は、この点で上部構造とは根本的に違っている。」

「言語は、何かある一階級によってつくられるのではなく、全社会によって、社会の全階級によって、何百の世代もの努力によってつくられたものである。言語は、何かある一階級の要求を満足させるためにつくられたのではなく、社会全体の、社会の全ての階級の要求をみたすためにつくられたものである。」

「言語は、(上部構造とは)反対に、数多くの時代の産物であって、そのあいだかかって、言語は形成され、ゆたかになり、発展し、みがきをかけられてきたのである。だから、言語はどんな土台や上部構造とも比較にならぬくらい長生きする。」

「言語は・・・人間の生産活動と直接に結びついており、また生産活動ばかりでなく、生産から土台までの、土台から上部構造までの、人間のあらゆる活動分野にわたるそのほかのあらゆる人間活動とも結びついている。だから、言語は土台における変化を待たずに、いきなり、直接に、生産上の変化を反映する。だから、人間のあらゆる活動の作用範囲よりもひろく、多面的である。それどころでなく、それはほとんど無際限である。」

 すこし丁寧に引用したのはほかでもなく、科学と言語が予期される以上に、類似した性格をもっていることを示したかったからである。文中の「言語」のところを「科学」と置き換えてもう一度読んでもらいたい。そのままぴたりと意味が通じるのに驚かされるだろう。これは単なる偶然の一致ではない。両者は基本的なところで通じ合う性質をもっているからに相違ない。たとえば「言語の特徴」としてあげられることがらは、ほぼ同時に、科学についてもいえるのである。— 言語は(また科学は)手段であり用具であって、人間の生産活動とともに、人間の1つの例外もないいっさいの活動範囲のうちにあらわれる生産以外のあらゆる活動ともむすびついている — というように。現在の科学が文字通りの意味で、まだそのような状態にないとしても、年とともに益々はっきりしてきたように、その本来の方向へ、個々人の日常生活のレベルにまで影響をおよぼす方向へ、進んでいるのである。

 ところで、このようにいっても、何からなにまで言語と科学が一致すると主張するつもりはもちろんない。違いはいくらでもある。はっきりちがう点はまず、言語なくしては人間自体ありえず、したがって社会も成り立たない(正確な表現はエンゲルス「猿が人間になるについての労働の役割」を参照)のに対し、科学は明らかに、人類史の途中からしか存在していないことである。ちがいは最初から明白である。問題はやはり、それにもかかわらず、科学が言語に似ていることの意味である。

ぼくは、基本的性格として科学は言語と同じものであり、いわば科学は新しい「第二の言語」とでもいうべきものではないか、と考える。科学は、自然言語(ことば)とともに、もっと大きなカテゴリーのなかに一括されるべきものであり、したがって社会に対しても基本的に同じ位置に立つものである。そして、この点にこそ「科学の正体」に迫る糸口があると思われる。

 

その4 — 科学の正体 —

 言語は人間社会を成り立たせる契機であるという。ではその類似の性格からして、科学も次元のちがう同じ契機であるといえないか。それまで言葉が占めていた人間社会の位置に科学がとって代わり、それゆえ人間社会のあり方が全体的に変容しだしたのだ、といえないだろうか。近代科学成立後の世界を考えてみよう。

 科学が技術を媒介しながら、社会の土台に浸透しだすのは、産業革命を境にした資本主義社会においてである。そのとき、それ以前にはちょっと想像できない現象が起きている。すなわち、アヘン戦争を発端とするヨーロッパ各国(後には日本も加わって)による中国の植民地化のことである。これはそれまでの、たとえばスペインやポルトガルが南米やアフリカを植民地にしたのとは、言葉は同じでも、意味はまったくちがうと思う。18世紀までは「中国にあってヨーロッパにないものがあっても、ヨーロッパにあって中国にないものはない」といわれた — 誇張はあるにせよ、それがほぼ実情であったとされている(フランス・ルイ14世の中国かぶれの話、あるいは、加藤秀俊比較文化への視角」中公を参照) — ほどの国である。それが19世紀に入ると、急にヨーロッパ諸国に水をあけられてしまうのである。それはもちろん、ヨーロッパの資本主義化、近代化と呼ばれる一連の変革で十分説明されるだろう。しかし、両社会のもっとも深部におけるちがいは、ヨーロッパに科学があって、中国にはついになかったという点にあると思う。言い換えれば、中国はあくまでも自然言語に立脚した社会であったし、同種の社会(文明)の中ではもっとも高度の水準にまで達していたといえるだろう。 

 一方、第2の言語である科学に立脚して登場した西北ヨーロッパの社会は、自然言語では達しえないステージに進んでしまったと見るのである。その様子は、ある段階から次の段階へと進む社会発展史のなかのひとコマというよりは、むしろ、猿から人間へとすすんだ生物進化の延長上に起ったとでもいうべき、人類の文明史における「進化」ではなかったのか — と思われるのである。・・・まだ霧の中に霞んでよく見えないが、「科学の正体」はこのあたりにありそうだ。 完