rackotterのブログ

ニシカワケン

論考:遺伝子 vs 物理学

はじめに

 科学史を高い視点から俯瞰してみると、物理学と生物学は、20世紀の半ばまではほとんど何の目立った関係性をもたず、両者はほぼ「没交渉の関係」だったように見える。ところが、もう少し眼鏡の倍率を上げてよく見ると、1930年代に入ると、物理の側から生物に関心を持ち、物理学から生物学に転向する若い研究者が、ぽつぽつと現れるのが見えるようになる。この流れは時とともに勢いを増し、1940年代には物理学は生物学に急接近した。そして、生命現象の基底部に存在する遺伝子に狙いを定め、ついにはパクリと口を広げ、遺伝子を丸呑みにしてしまった。このような両者の邂逅(出会い)と衝突は、シュテファン・ツヴァイク流に言えば、科学史上の「星の時間」ともいうべき出来事であり、邂逅した両者が互いに異質であればあるほど「その星」は輝きを増す。両者の巡り逢いは新しい概念(遺伝情報)を生み、2つの新しい学問分野(生物物理学と分子生物学)の創出を促した。

 しかし、すべてが順調にいったわけではなく、物理はいったん呑み込んだ遺伝子を吐き出してしまう。いったい何が起きたのか? 生物学と物理学の歴史的経緯をたどり、順を追って述べてみたい。

 

20世紀初頭の遺伝学

・再発見されたメンデルの「遺伝の法則」

 グレゴール・メンデルによって発見された、いわゆる「メンデルの遺伝法則」は、論文「雑種植物の研究」として1865年に発表された。メンデルは異なる性質(形質)をもつエンドウマメを交配し、その第1世代、第2世代が、どのような形質を示すかを観察した。その結果は誰も予想しなかった意外なものだった。子の世代である第1世代では、すべての個体が片方の親(優性)の形質を示し、さらに第1世代どうしを交配させた第2世代では、最初の世代(第0世代)の2種類の形質(優性と劣性)が3対1の割合(簡単な整数比)で現れたのである。

 このように、親の形質が子孫たちには簡単な整数比で現れるという結果は、粒子状の遺伝因子を仮定すると容易に理解できるが、それまでの「両親の血が混ざり合って子に伝わる(混合遺伝説)」という、伝統的で素朴な遺伝の概念とは相反するものだった。しかし、メンデルの研究成果はチャールズ・ダーウィンをはじめとする同時代の学者の目に触れることもなく、やっと19世紀の最後の年(1900年)になって、3人の生物学者により同時に再発見されることになった。

 20世紀に入ると、メンデルの「粒子状の因子」は「遺伝子」と呼ばれるようになり、放射線照射によって生じる突然変異は、遺伝子が損傷を受けて異常になることが原因であると理解されるようになった。

 

・遺伝学の成立

 実験遺伝学の手法を開発して、遺伝子の実体に迫ろうとする研究の先頭に立ったのは、米国コロンビア大学のトーマス・ハント・モーガンである。ショウジョウバエをつかって実験していたモーガンは、1910年に、通常は赤い眼をしたハエの集団のなかに、ときおり混じる白眼の変異体を発見した。白眼の変異は雄のハエにしか現れないことから、原因遺伝子はハエの性染色体(X染色体)上にあることが推定できた(伴性遺伝)。この発見を皮切りに、他のタイプの変異体もつぎつぎと見出され、そのうちのいくつかは同様にX染色体上にマップされた。

 モーガンは変異体の原因遺伝子を解析するうちに、相同な染色体の間で一部が入れ替わることにより、遺伝子組み換えが起こることを見出した。組み換えの度合いは、染色体上の遺伝子間の距離に従うこともわかった。これにより、染色体上の遺伝子地図を描くことに成功した。次々に発表される研究成果とともにモーガンの名声も上がり、「ハエの部屋」と呼ばれた彼の研究室には、若くて優秀な研究員が集まり、研究はますます加速した。こうして1930年代にはモーガン学派によって、「ネックレスの糸に通された真珠玉のように染色体上に並んだ遺伝子」という遺伝子像が語られるようになった。

 こうしたモーガン学派の活躍によって、遺伝学は生物学のなかでもっとも先進的な研究分野となった。他の生物学の分野、たとえば発生学は20世紀を迎えても、いわゆる「前成説」か「後成説」の議論を戦わすなど、まだ前近代的な状態だった。なお染色体上に並ぶ遺伝子の存在を明らかにして、一見近代化に成功したように見える遺伝学にしても、遺伝子の化学的実体(タンパク質か核酸かという問題)の解明には無力だった。ワトソン=クリックによって、この問題に決着が付けられるまでには、さらに20年を要した。

 

物理学の生物学への急接近

 20世紀の生物学と物理学の関係性を見たとき、第二次世界大戦を含む前後の時期(1930年代半ば~1950年代)は、物理学が生物学へと急接近した独特な時代であったといえると思う。そのような動きが、なぜ生じたかという事情は、もっぱら物理学の側にあったようだ。

 19世紀末の放射線の発見から始まった物理学の変革は、相対性理論量子力学を生み出し、1930年代までに現代物理学をほぼ完成させた。その後の発展は、1つは原子核からさらに原子核を構成する素粒子へと向かい、もう1つは、原子核の周囲をめぐる電子が主役を演じる原子どうしの化学結合や化学反応の原理を明らかにすることだった。こうして量子化学という新しい研究分野が生まれた。物理学は化学の基本原理を明らかにすることで、物理学の体系のなかに化学を取り込み、物理と化学は連続的で地続きの学問分野となった。この勢いのままに物理学は、次の目標としてごく自然に生物学に向かうことになった。

 

 ・シュレーディンガー

 その先頭に立ったのは、量子力学の完成に携わった第一級の物理学者たちであった。量子力学の生みの親の一人である、エルヴィン・シュレーディンガーは1944年に小冊子「生命とは何か」を出版した。生命現象の基本問題について一般向けに書かれたこの本は話題をよび、多くの人に読まれた。この本で有名になったフレーズとして、たとえば、「無機的な物質は時間とともにエントロピーが増大して風化する一方なのに対し、生き物は『負のエントロピーを食べる』ことによって秩序を維持している」がある。また、この本の中で遺伝を担う実体としての遺伝子は「無周期性結晶」(参考図書  p.4)だと予測された:

 

・・・染色体は、個体の将来の全パターンと個体が成熟したさいの機能とをある種の暗号文書の形で含んでいる。・・・染色体の糸状構造を暗号文書と呼ぶのはどういう意味かといえば、かつてラプラスが考え出したように、すべての因果関係をただちに見通すことのできる万能的な知性があったとしたら、染色体の構造を見ただけで、その卵が、しかるべき条件の下で発生すれば、黒い雄鶏になるか、斑入りの雌鶏になるか、ハエになるか、トウモロコシになるか、シャクナゲになるか、甲虫になるか、ネズミになるか、女性になるかが判る、という意味である。・・・しかし暗号文書という語は、もちろん狭すぎる。染色体の構造は、同時にそれが今後体験するはずの発展を、実現してゆく機能をもっているのである。染色体は、法律の綱領であると同時に事業遂行権力でもある —— 別の比喩を使えば、染色体は1にして、設計図と施工技術者とを兼ねているのだ。(参考図書 p.31)

 

ここで文中の「結晶」を「生体高分子」に替えて「無周期性の生体高分子」とすれば、後に明らかにされた「A, T, G, C という単位の非周期的な繋がりからなるDNA」に近いともいえる。これにより、ワトソン・クリックのDNA二重らせんモデルの発表よりおよそ10年も前に、染色体(DNA)に沿って無周期性のパターンとして記された「発生に関する暗号文書」(遺伝情報)が、ほぼ正しく予想されていたことがわかる。

 ただし、シュレーディンガーは別の箇所で「遺伝子の構造は(1000個程度の)比較的少数個の原子から成る」と言っているので、DNAというよりもタンパク質に近い高分子を想定していたように思われる。

 

 ・ボーアとデルブリュック

 一方、このシュレーディンガーの「生命とは何か」に先立って、量子力学コペンハーゲン学派を率いたニールス・ボーア量子論において現れる粒子性と波動性の矛盾に対して、「相補性」の概念を打ち出したことで有名)は、1932年に「光と生命」と題する講演を行い、物理学と生物学をむすぶ新しい学問の可能性を提唱した。そのとき聴衆の中にいたドイツの若い物理学者マックス・デルブリュックは、ボーアの講演から深い感銘を受け、理論物理学から生物学への転向を決意したと言われている。この時期に物理学から生物学への転向した人は少なくないが、なかでもデルブリュックは最大の成功者の一人だった(後にノーベル医学生理学賞を受賞)。

 米国に渡ったデルブリュックは、最初はショウジョウバエの遺伝学から研究を始めたが、だんだんとバクテリアやファージ(バクテリアに感染するウイルス)へと研究対象を移していった。量子力学が、原子の中でもっとも単純な水素原子に的を絞ることで成功したように、生物学においても、単純な生き物をモデル生物として研究を集中すべきだと考えたからである。1940年代に彼は、コールド・スプリングハーバー研究所にファージの遺伝研究を行う「ファージ・グループ」を立ち上げ、初期の分子生物学の発展に貢献した。ファージ・グループの活躍は、その後「遺伝子の本体はタンパク質か、核酸(DNA)か」という大きな問題の解決につながっていく。

 

 ・遺伝子の実体はタンパク質か、核酸

 最初の突破口を開いたのは、米国ロックフェラー研究所のオズワルド・エイブリーだった。肺炎双球菌にはマウスに肺炎を起こす病原性のS型と病原性を示さないR型という、2つのタイプがある。病原性のS型の細菌を熱処理して死滅させ、病原性のないR型の細菌と混ぜて、マウスに注射したところ、マウスの体内で病原性をもつS型の細菌が増殖することを見出した。これは熱処理によってS型細菌の細胞が壊れ、染色体の断片が放出され、病原性の形質を表すS遺伝子を含む断片がR型細菌の細胞内に入り込むことによって、R型細菌がS型に変化した(「形質転換」と呼ばれた)と解釈された。そして、エイブリーは1944年に「肺炎双球菌の形質転換を起こす原因物質はDNAである」と発表した。(しかし、じっさいにはエイブリーの論文はあまり話題にならなかった。形質転換にDNAが効いているとしても、タンパク質の役割が明確でなく、その役割が完全に否定されたわけではなかったから、と言われている。)

 もっと決定的な証拠は1952年に発表された、いわゆる「ハーシー=チェイスの実験」によってもたらされた。アルフレッド・ハーシーとマーサ・チェイスは、大腸菌に感染するT2ファージを実験に用いた。(ハーシーはデルブリュックと共にファージ・グループを立ち上げた仲間の一人である。)T2ファージは感染のさい、最初に大腸菌の表面に付着して細胞内に入り込み、細菌の菌体中で増殖して培地中に出現する。T2ファージはDNAとそれを包むタンパク質の殻でできている。そこでハーシーとチェイスは、当時の最先端の技術であった放射性同位体ラベル法をつかって、DNAとそれを覆うタンパク質を識別できるように標識をつけた。タンパク質には含まれるがDNAには含まれない硫黄原子を放射性同位体35Sで置き換え目印とし、DNAには含まれるがタンパク質には含まれないリン原子を32Pで置き換えた。これにより、ファージが大腸菌に感染するさい、タンパク質の殻は細胞表面に残したままDNA だけが菌体内に注入され、菌体内でファージが増殖することが確認された。増殖したファージからはリンの同位体だけが検出され、硫黄の同位体は検出されなかったからである。こうして遺伝物質はDNAであることが証明された。

 DNAが遺伝物質の本体であることが判明して以来、DNAの構造解明へと向かう動きが加速した。DNAの分子構造に関して、この時期に生化学者のエルヴィン・シャルガフによって重要な報告がなされた。それは、DNAを構成する4種類の塩基のうちアデニン(A)とチミン(T)の量は(DNAの種類によらず)常にほぼ等しく、同様にグアニン(G)とシトシン(C)の量も常にほぼ等しい、という発見だった。このシャルガフの経験則は、後にA=TとG=Cの塩基対の連なりからなる、DNAの二重らせん構造として実を結ぶことになる。(シャルガフはシュレーディンガーの「生命とは何か」(1944)を読んで大きな感銘を受け、直ちに自分の研究テーマを「DNAの化学的構成成分の解析」に切り替えて、すべての研究をそのテーマに集中させたという。そして、1950年に「シャルガフの経験則」を発表した。)

 こうして、DNA分子構造決定のお膳立ては整った。そして最後の決め手となったのは物理学的手法だった。

 

DNA二重らせん構造の発見

 イギリスでは、ブラッグ父子による「ブラッグの法則」の発見(1913年)以来、結晶にX線を当てその回折像から物質の構造を研究する、X線結晶解析の伝統がある。最初のうちは低分子化合物の結晶がサンプルとして用いられたが、1930年代の半ばになると、精製したタンパク質(ペプシン)が単結晶を形成することが知られるようになり、ロンドン大学のJ・D・バナール とドロシー・ホジキンはペプシンの結晶を用いてX線回折写真の撮影に成功した。

 しかし、X線回折像から得られるのは結晶の逆格子空間に関する情報であり、これを実空間の物質の姿に戻すには、フーリエ変換という理論計算が必要になる。この困難な問題に果敢に挑戦したのは、ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所の若手研究者マックス・ペルーツだった。ペルーツがヘモグロビン結晶の回折像を得たのは1937年であり、最終的にヘモグロビンの立体構造の解明に成功したのは 1959年だった。1つのタンパク質の構造決定に20年余りを要したとして、ペルーツの研究は語り草になっているが、まだコンピュータも存在しなかった時代に、膨大な計算を要する解析に取り組んだことを考えると、大成功を収めたというべきだろう。(ペルーツが費やした20数年間には、第二次大戦でイギリスがドイツと戦った戦争の期間が含まれており、その間は基礎研究などとても継続できなかったようだ。また技術的な問題として、X線回折の「位相問題」を解決するために、新たに「重原子同型置換法」を考案する必要もあった。)

 第二次大戦が終わって、キャベンディッシュのペルーツの研究グループには数名の新しいメンバーが加わった。その中には英国海軍研究所での軍事研究の勤務から戻ってきたフランシス・クリックもいた。彼はもともと物理学科(修士)の出身だったが、生物学への転向を考えてペルーツの下に加わったという。そして、しばらくしてからそこへ若い生物学者のジェームズ・ワトソンがアメリカからやってきた。クリックはワトソンとウマが合った。二人はDNAの分子構造の研究に取り組み、DNAの二重らせん構造の発見にいたる。

 ただし、ワトソンとクリックはDNAの分子構造を実験的に決定したわけではない。すでに、モーリス・ウィルキンスらの行った繊維状DNAのX線回折の実験結果があり、それによってDNA に特徴的な(繊維軸方向の)周期的パターンを知ることができた。繊維軸に垂直な方向に関しては、先述のシャルガフによって発見された塩基対の規則性を満たす必要があった。これらの実験データと規則性に合致するような分子模型を組み立て、理論的計算によって実測値との一致が確かめられた。

 1953年にこの結果を得た二人は、すぐさまNature誌に論文を発表した。Nature論文の第1報は世紀の大発見として有名になったが、たった1ページあまりの短い論文だったという点でも話題になった。彼らの発表したDNA分子模型はすべての遺伝学者や生物学者から驚きをもって迎えられた。DNA のあまりに規則正しい構造と、その構造を見たとたんに誰にでも遺伝の仕組みが理解できるほどのわかりやすい姿をしていたからである。

 すなわち、その構造は上下の方向が逆向きに並んだ2本の相補的な鎖状のDNA分子からなる。この2本鎖の配置からDNAの複製(2倍化)の原理が容易に理解できる。らせん構造をなす2本鎖は「互いに相手の鋳型」となるような相補的な塩基配列をもっているので、らせん構造がいったんほどけて2本鎖が分離し、それぞれの1本鎖が鋳型となって相補鎖が合成されれば、DNAは2倍化され、元の二重らせん構造と同じものが2つでき上がる。

 ワトソンとクリックは、引き続き発表した2報目のNature論文において、DNAの塩基配列(4種類の塩基A, T, G, Cの配列順序)には何の制約もなく、任意の遺伝子の遺伝情報を塩基配列によってコード化することができる、と述べている。ここでは、この論文の中で一度だけ使われている「遺伝情報」という言葉に注目したい。おそらく、遺伝情報という語が活字として使われた史上初のケースだと思われるからである。(原文では、”It seems likely that the precise sequence of the bases is the code that carries the genetical information.” となっている。”genetical information” はその後、”genetic information” と言われるようになった。)このNature論文を契機として、分子生物学という学問分野が事実上のスタートを切ることになった(「分子生物学」という名称はすでにその前から、デルブリュックらのファージ・グループにおいて使われていた)が、遺伝情報 genetic information という語はもっともふさわしい場所で最初に使われたといえる。遺伝情報はその後、分子生物学の中心的な概念の1つになってゆくが、その一方で、その同じ遺伝情報という概念が物理学にとっての「つまずきの石」となった、と私は見ている。

 

遺伝情報につまずいた物理学

 20世紀の半ばに起きた物理学と生物学の歴史的な邂逅によって、遺伝子(DNA)の物質的構造が明らかにされた。カギとなった物理学的手段はX線結晶構造解析だったが、この方法はその後、タンパク質の立体構造を決定する唯一の方法として、種々のタンパク質の構造を解明していった(X線結晶構造解析にはコンピュータが必須であり、コンピュータの発達とともに徐々に普及した)。

 DNAとタンパク質はともに、生命活動を支えるもっとも重要な基本物質(生体高分子)である。物理が化学の基本原理を解明することによって、化学を物理体系のなかに吸収したように、DNAとタンパク質の分子構造が物理学的手段によって解明されたことによって、物理は生物学を自らの体系のなかに取り込むことに成功したといえるだろうか? あるいは、物理と生物のあいだの溝は取り除かれ、両者は連続的に繋がったといえるだろうか? そのように考える人も少なくないようだが、私はそうは思わない。

 生物学の視点からみると、DNAの分子構造よりもDNAの塩基配列という形で、DNAが担っている遺伝情報の方が重要であろう。物理学はDNAの分子構造とともに遺伝情報を自己の内に取り込もうとしたが、消化できなかった。それと対照的に、遺伝情報という概念を取り入れて大発展を遂げたのは分子生物学の方であった。(分子生物学は「分子レベルの生物学」を指し、あくまでも「生物学」の一種である。博物学から始まった生物学は観察と実験から得られた事実の記載に重点を置き、その反面として体系だった学問の構築を目指すという意欲はあまり感じられない。)

 以上を比喩的にまとめて言えば、物理学は生き物(生物)の急所をなす遺伝物質(DNA)に噛みつき、呑み込んだが、その次の瞬間にはそれを吐き出してしまった。なぜなら、遺伝情報、あるいはもっと一般的にいえば、「情報」という概念が物理学の中になかったからであり、それを受け入れる枠組みも物理学の体系の中になかったから、と言わざるをえないのである。

 

分子生物学の躍進

 すでに述べたように、ワトソン・クリックの二重らせん構造からは、DNA複製の機構がただちに予測された。しかしその一方で、DNAとタンパク質がどのような関係にあるのかに関しては、まだ何もわからなかった。DNAの塩基配列とタンパク質を構成するアミノ酸の配列が対応しているはずだと、いち早く問題点を整理して提案したのは、ソ連から米国に亡命していた理論物理学者のジョージ・ガモフだった。彼は4種類の塩基を20種類のアミノ酸と対応づけるためには3塩基の組(トリプレット)が必要であると指摘した。またDNAの配列はいったんRNAに移される(転写という)必要があることもわかってきた。ガモフの予測に基づいて実験が行われ、RNAのUUU(DNAのTTTに対応)がアミノ酸フェニルアラニンを指定するコドンであることが、生化学者のマーシャル・ニレンバーグによって実証された。こうしてDNAの遺伝暗号解読競争の幕が切って落とされた。次々とDNAのトリプレット・コドンとアミノ酸の対応関係が決定されていき、1966年までに3種類の停止コドンを含めて、64のすべてのトリプレット・コドンとアミノ酸との対応関係が明らかにされ、その結果を表にまとめたコドン表が発表された。

遺伝暗号の解読と並行して、DNAの遺伝情報がRNAに転写され、さらにRNA塩基配列アミノ酸配列へと翻訳されてタンパク質が合成されるという,一連の過程も解明されていった。この過程には何種類ものRNAが関与するので、最初のうちはかなりの混乱が生じた。まずDNAの情報が転写されるRNAメッセンジャーRNA(mRNA)と命名された。転写によって生成されたmRNAはタンパク質合成装置(RNAとタンパク質から構成される巨大粒子)のリボソームに移行し、リボソーム上で mRNAの塩基配列アミノ酸配列へと翻訳される。この翻訳過程には、mRNAのコドンとアミノ酸を直接対応づけるアダプター分子が必要になるだろう、と予言したのはクリックだった。その予言どおり、一端にアンチコドンを有し、他端にアミノ酸を結合した転移RNA(tRNA)が発見された。(20種類のアミノ酸に対応して20種類のtRNAがあり、それぞれのtRNAにアミノ酸を特異的に結合させるアミノアシルtRNA合成酵素が存在する。)こうしてDNA上にコードされた遺伝子が発現して、タンパク質が生合成される過程の全容が次第に解明されていった。この時期の一連の分子生物学研究の中心にいたのは常にクリックだった。彼は遺伝子発現の過程を、DNA → RNA → タンパク質という一方向の情報の流れとしてまとめ、「セントラル・ドグマ」と呼んだ。(なお、転写の逆の過程、つまりRNA → DNAという「逆転写」の存在が後に発見され、ドグマ(教義)の一端は崩れてしまった。しかしながら、タンパク質 → DNAという情報の流れは存在せず、不可能であることは現在でも正しい。)

 時代の流れはいつしか物理学者の活躍できる場面は少なくなり、試験管を振ってウェットな実験を行う分子生物学者の姿が目立つようになった。当時の状況は、後述の「その後のワトソンとクリックの姿」に象徴的に表わされている。

 

・日本の生物物理学と分子生物学

 ワトソン=クリックのDNA分子構造の発見からはじまった国際的な新しい生命科学の動向に、日本でもっとも敏感に反応したのは物理学者であった。第二次大戦後の1951年に日本語に翻訳されたシュレーディンガーの「生命とは何か」も彼らに大きな影響を与えたようだ。「若手の会」が組織され、生命現象の中に量子力学に匹敵するほどの新しい物理があるのではないか、さらに、生命を規定している新しい自然法則があるのではないか、という期待とともに「新しい物理」が合言葉となった。日本初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹京都大学教授)も、強力な「応援団」として「新しい物理」への流れを後押しした。

日本生物物理学会が正式に設立されたのは1962年である。この生物物理学会にはウェットな実験を行う分子生物学者も一緒に合流して出発した。後者のウェットな実験を行う人たちが目指したのはDNA像に基づく「新しい生物学」であり、けっして「新しい物理学」ではなかった。両者の違いは年とともに明らかとなった。分子生物学はDNA 構造の発見とともに始まり、遺伝子や遺伝情報を研究の中心に据え、DNAやタンパク質を主役とする、文字通り分子レベルの生命現象(生物学)を追求することを目指し、順調に発展した。日本の分子生物は生物物理から分離・独立して、1978年に日本分子生物学会が発足した。

最初の出足が早かった生物物理は、逸早く学会を組織し順調な出発にみえたが、「遺伝情報」に出会ってその取り扱いに困惑し、ついにはその受け入れに失敗したようである。自己増殖によって同じものがいくらでもコピー(複製)できるような現象は、それまでの物理学の研究対象にはなかった。ましてや、転写や翻訳に当たるものはない。

 

・生物物理学会自己批判

 遺伝情報の発現によって生じるタンパク質は、個性的で多様な構造と機能をもつことによって生命現象を支えている。タンパク質の立体構造(3次元)は、1次元のアミノ酸配列から「相転移」に似た過程を経て形成されるため、統計力学による理論解析が盛んに行われたが、得られた結果は遺伝情報を捨象した高分子としてのタンパク質一般の振る舞いであった。つまり、遺伝情報に基づいて作られる個性豊かなタンパク質は、物理学によって捉えることができなかった。生物学との接触から生まれた物理学の新分野である、複雑系の理論、非平衡統計熱力学、カオス理論などをみても事情は同じである。遺伝情報を取り込んだといえる「新しい物理」はどこにも見当たらないのである。

 生物物理学会は発足から40年後に、自らを問い直す「生物物理学とはなにか」という学会が自ら企画出版した撰書を出している。これは通常の学会では見られない異例のことと言わざるをえない。私の見るところ、物理学は生命現象の基底部にある遺伝情報の理解(取り扱いと消化・吸収)に失敗した。その点は、生物物理には体系的な教科書がない(書けない)という事実によって端的に示されていると思う。(対照的に分子生物学は、ワトソン著「遺伝子の分子生物学」など、何種類もの立派な教科書を生みだしている。)たしかに、生き物から抽出・精製したサンプルに対して、X線結晶構造解析法など高度な実験手法を用いた研究があり、あるいはまた、理論的研究やデータベース解析などもある。しかし生物物理は核となる中心部分を欠くため、統一的な学問体系を形成することができず、各論の集まりにしかならなかった、と言わざるをえないのである。

 

・物理学にはない情報という概念

 あらためて遺伝情報とは何かと問うてみると、明らかに生命の起源とともに生じたものであり、その意味で客観的な、つまり自然科学の対象となりうるものである。(現に分子生物学の研究対象となっている。)遺伝情報とは、突きつめて言えばDNA塩基の配列順序によって表現される情報であり、高分子化合物としてのDNAはその情報の媒体にあたる。DNAからRNAへの転写は情報媒体の変更を意味し、音楽をレコード盤からCDやDVDに録音するのと変わらない。DNA塩基配列の総体(ゲノム情報)は個々の生物の細胞核に保持されているが、ゲノム時代を経過した今日では、それと同等の情報がATGCの膨大な文字列の集積としてコンピュータの記憶媒体に格納されている、ともいえるのである。

 次にもっと一般化して、「情報」とは何かと問うてみると、情報のなかには遺伝情報にかぎらず、脳神経情報や人間のことば(自然言語)も含まれることがわかる。これらはすべて、人間がつくり出したものではなく、生物進化の時間軸に沿ってみるとあきらかに人間に先立って成立したものだと言える。(自然言語はもちろん人間の発明ではない。むしろ、自然言語が人類を生み出したというべきであろう。)自然言語の能力をもつ人間は文字をつくり、文明を生みだし、ついには情報処理機械としてのコンピュータを発明して、インターネット社会をもたらした。情報に満ちた現代社会では、情報の裏にそれを生み出し、操作し、発信する人間を想定しがちになるが、進化史からいえば順序が逆であり、人間より先に情報があったというべきである。

 生物の進化に即してみると、生命の起源とともに遺伝情報が現れ、動物の出現とともに脳神経情報が生じ、人類(ホモサピエンス)の登場とともに自然言語が現れた。これら3種類の情報はたがいに質的に異なる情報の形態を示し、いずれも進化史上の最大級のイベント ー 細胞性生物の起源、動物のカンブリア爆発、人類の起源 — に伴って生じた、という事実は注目すべきである。私は、遺伝情報、脳神経情報、自然言語を情報の3つの基本形態と呼ぶべきだ、と考えている。これらに匹敵するような基本的な情報形態は無生物の世界には見あたらない。したがって、情報は生物に特有のものであり、無生物世界を構成する物質・エネルギーという要素に加えて、生物世界を構成する基本的要素の1つと見るべきである(別言すれば、情報は物質・エネルギーに還元できない、それらとは別種の、客観的な世界の構成要素の1つといえる)。以上により、なぜ物理学が遺伝情報につまずき、それゆえ物理学が生物学の吸収と消化に失敗したのか、という理由がよく理解できるのである。

 

・その後の二人 — ワトソンとクリックのたどった対照的な足跡

 最後に、ふたたびワトソンとクリックに話を戻して、その後の二人の足跡を追ってみたい。ワトソンは米国に帰り、ハーバード大学教授、コールド・スプリング・ハーバー研究所所長を歴任した。その間1965年には教科書「ワトソン 遺伝子の分子生物学」初版を出版し、急速に進展する分子生物学の最新の研究内容を取り入れながら改定版を重ね、現在は第7版にまで及んでいる。そして、ゲノム時代の幕開けを迎えた20世紀末には、分子生物学界の大御所として国際的なヒトゲノム計画をリードし、21世紀の始まりと同時にヒトゲノムの全容解明を成功させた。

 これに対し、クリックのその後の経歴はワトソンとは対照的である。分子生物学の立ち上げの時期にはセントラル・ドグマの旗印をかかげ活躍したが、次第に彼の姿は目立たなくなる。一時はケンブリッジ大学遺伝学科の教授職へというオファーもあったようだが、それを辞退している。そして1976年には、南カルフォルニアのソーク研究所に移り、研究分野も大きく変えて「脳における意識」の探求に向かった。このクリックの大転身のなかに、遺伝情報を受け入れた分子生物学には自分の居場所がないことを悟り、遺伝情報とは無関係の未開拓の研究分野に、第二の大発見の可能性を賭けた、と見るのは深読みにすぎるだろうか。

 

参考図書

シュテファン・ツヴァイク人類の星の時間(訳:片山俊彦)みすず書房, 原書 1927.

E. シュレーディンガー「生命とは何か」(訳:岡小天、鎮目恭夫)岩波新書、原書 1944.

E. シャルガフ「ヘラクレイトスの火」(訳:村上陽一郎)岩波現代選書、1980.

渡辺政隆「DNAの謎に挑む」朝日選書、1998.

日本生物物理学会編「生物物理学とはなにか」共立出版、2003.

(とくに、本書第 2-4節 永山國昭著「新科学論」が本稿執筆の参考になった。)

 

西川 建 2024.01.31 脱稿